共和林業(株)100年物語

HISTORY

共和林業のはじまり

初代社長 田中茂雄
田中材木店 開業

 昭和のはじめ…今から90年ほど前、豊浦町川棚が豊浦郡川棚村だった頃、川棚温泉駅前に初代社長田中茂雄が「田中材木店」を開業し、杭木などの販売を始めました。
 このころは昭和初期の不況を抜け出し、家や家具などあらゆるものが木材で作られ、製材業は花形産業でした。
初代社長 田中茂雄

材木を山からおろすのには
架線、いかだ、馬車を
使用する大事業でした。

 とはいえ当時は山から切り出した原木を、架線を引いて山から下ろし、筏を組んで川を使って運び、馬車に乗せて製材所まで移動するという、かなりの人数が必要な大事業でした。それを可能にしたのは初代社長の人柄によるものでした。
 当時の川棚村では多くの人が漁業か農業に携わっており、いずれも1人、多くても家族数人でできる仕事でしたが、製材業となるとかなりの人数が必要です。
 初代には多くの人を集める人望があったからこそ田中材木店を始めることができたのです。
馬車

人望に溢れ、商才に
長けていた初代社長

 田中材木店には山林部と製材部合わせて40人もの従業員を抱えていました。商売人としての才覚にも長けており、製材業を営みながらガソリンスタンドも経営して、多くの従業員をしっかりと養いました。
 物や人の移動の主流がまだ徒歩や馬車だったこの頃に、いち早く木炭車を導入したのも初代です。
 当時の川棚村では田中材木店の車が「生まれて初めて見た車」だった人が数多くいたそうです。
木炭車
山林部

戦後、田中材木店は
共和林業株式会社へ

 終戦後の昭和22年3月2日田中材木店は共和林業株式会社として法人化しました。この頃には山林部はなくなり、製材業に一本化。
 現在の下関市豊浦総合支所のあるあたりに製材工場を建てて、新しい機材を導入。建築用材やパルプの製造販売をするようになりました。
 従業員数は30人弱となりましたが、川棚村の主要な企業として地域貢献にも熱心で、地区の警防団の活動にも参加していました。
 また、従業員への福利厚生として社員旅行を行なっていた記録もあり、経営者、従業員ともに「会社」としての意識が高まっていたようです。
昭和22年 事務所
材木

初代から2代目へ
工場を新築、営業品目も変更

 昭和30年から40年代後半、時は高度成長期、木材需要が高まり各地に製材所が増えました。その波は川棚周辺にも及び、競争力を高めるため、共和林業は新たに工場を建てて、取り扱う商品は主に家具用材や梱包材に移り変わっていきました。
 この頃にはのちに2代目を継ぐことになる田中義亮が初代の右腕として会社を支えていました。
2代目は大変面倒見がよくまわりに好かれる人でした。
 新しく入社した従業員に「俺の目の黒い内は面倒見てやるけぇ」と話し、その人は70歳まで30年以上も従業員として働いたそうです。
 また、幅広い人脈から、全国的に広がりを見せていたライオンズクラブ豊浦支所(現 豊浦ライオンズクラブ)の設立にも尽力しました。 そして昭和48年、初代田中茂雄から2代目、田中義亮へ代替わりしました。

昭和30年 工場外観

昭和32年 仕事始め

家具用材

町の要望により工場移転

 代替わりからおよそ10年、共和林業の工場があった川棚温泉駅前周辺は町の中心地として公的施設や商店などが集まり賑わいを見せていました。
 それに伴い昭和58年、豊浦町の要望によって海側の現在地へ移転することになり、工場も増設しました。
 このころには多くの商品がプラスチックに変わり、木材の需要は減っていましたが、お客様の要望に合わせて作るものを変化させることができたことが功を奏し、堅調な経営を維持することができました。
 そしてちょうど工場が移転した頃、のちに3代目となる田中隆義が共和林業に入社しました。
工場イメージ
町イメージ

3代目が引き継いだ
共和林業 株式会社

 その後、平成14年に3代目田中隆義が代表取締役になると、社内体制の見直しを図り、更なる機械化を進め、採用する人材も「自分で考え工夫する人」を中心にして、効率よく仕事ができるように改革しました。
 事業内容もお客様の要望の変化に合わせて、パレットとウェッジの製造販売に特化していきました。
平成イメージ
平成 工場写真

 初代から受け継いできたのは「一に仕入先、二に従業員、三にお客様」という「最も大切にすべき三つの柱」です。
「モノを作る会社として材料なしには何も作れない。良い製品を作るには、良い社員がいないと作れない。」ということを念頭に、仕入先との関係を重視し、働いてくれる従業員を大切にし、しっかりとお客様のご要望に答えて喜んでもらう。
 この想いを礎にして、今、
共和林業は100年企業になろうとしています。